表現するということ

「表現する」ということ
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これは自分自身にも当てはまることですが、
世の中、本当に安易に「表現」できるようになっているのでは、と思います。表現できる場が増えたと言った方が良いのかもしれない。
「今日は◯◯に行った!」「××の△△を食べたけど美味しかった!」「こんなニュースあるよ」
「こんな活動してま〜す!」「自分はいまここにいます!」

みんな表現したがっている。

「表現」が蔓延している。飽和している。
それらの表現のほとんどが個人的な営みであったり、無価値と思われてきたものを再評価したり、新たな発見をしたというものであったり。
しかしそのほとんどが、なにか一定のマニュアル上に乗っとり、“ウケる”方程式で出そうと努力しているか、“自己満足による押し付けがましさ”の見える場合が多い。

なんであれ、テレビやインターネットなどのメディアを“見ていた側”=傍受者の立場 から飛躍し、
“伝えたい!”、“伝える側”=表現者の立場 への転身を図っているように思える。

周囲が様々なことを表現し、宣伝する。楽しんでいる姿、頑張っている姿の前に立たされ続けていると、劣等感が生まれるのかもしれない。
情報が溢れ返るほど多い生活のなかで、「生きている」ということを周りに伝えなければ不安になってしまう。「自分はここにいる!」というシグナルを出さなければ不安なのではないだろうか。

「取り残される。 忘れ去られる。 面白くないやつと思われる。」 

これらの状況に対する畏れ。
これら=死 を意識するからか。

この、自分を見てほしい、知ってほしい、聞いてほしい、欲しい欲しいの欲望ゆえ、
じっくり暖めてから表に出すようなものではなく、安易で思慮に欠け、ただただ自己顕示欲の浮き立つ、泡のような表現が目の前に積み重ね続けられる。と、感じている。



表現とはなんなのか。

僕が目指してきた、学んできた、志してきた表現とはなんだったか。

もっとじっくりと暖め、よく練り、感じ考え、一度わからなくなり、それでも突き動かされる。
そこに美しさや面白さを感じ、どうしようもなくなる。
そうしなければどうしようもなくなる。
言葉では言い表せないくらい、出さなければどうしようもない渾身の一矢。
その時に出てくるものを 「表現する」と言うべきではないか。

このパッションと冷静さと、主観と客観の入れ混ざった、その先に出てくるものには、
その人の本物の「生」があり、「熱」があり、「臭い」がある。
どんなヘタな言葉でも、どんな不器用な技でも、“そうしなければならなかった”という独自性の先に実る結晶には、しっかりとした魅力的な輝きがある。

強い表現、魅力的表現というものだと思う時に共通することは、その人の熱や臭いのするものであったりすることが、僕は多い。
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by mongoling-yanwoo | 2013-04-28 16:04 | 日本 | Comments(0)
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