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土着と、つくるということ

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復興にたずさわるお仕事を4月からさせてもらっている。
まだまだ日が浅く、見えてくるものはごく限られた景色でしかないのだろうけれど、そんな日々の中で常々感じることは、

「僕はよそ者である」ということ。

別に差別されているわけでもなく、仲間がいないわけでもなく、とても楽しく刺激的な毎日を過ごさせていただいている。
でもぼくはやっぱりよそ者なんやと思う。外の人や。

これはモンゴル在住中にも感じていたことや。
僕はモンゴルの大地で育ってきていない。モンゴルの風を、体感しただけや。
どう足掻いても僕は日本人である、と常に意識させられていた。(モンゴル人になる努力はしましたし、近づいたけどね)
そしてここ宮城の位置する東北であろうが、九州であろうが、日本であることには変わりがないんやけども、常々このことを感じさせられるのはなぜなのか。
居心地が悪いのか。言葉や文化の違いか。人の違いなのか。

「よその人には、我々の気持ちは分かるまい」というニュアンスをときどき感じる。
それは気質なのかもしれないし、地域性なのかもしれないし、もしかしたらその人々自身の複雑な思いが滲み出ているのかもしれないが、
実際、分からないんだろうと思う。これは事実なんとちゃうやろか。

だって熱意が違う。思いの重さが違う。意気込みが違うって思うもん。

僕は東北人にはなれない。
なぜなら、僕は東北で生まれ育っていないから。
いつもいつも奈良を思い出すねん。
それは僕は奈良で生まれ育っているからや。


周りの人の手助けがいくらあっても足りないほど東北の復旧・復興には時間がかかると思う。
元々「田舎」と呼ばれていたような場所が壊滅してしまった。ここが復興するって、どうなるんかな。

やはり見たこともない、思いもよらない、新しい在り方が必要だし、そうなるべきや。
その未来を皆で創っていくわけやけど、必ず鍵のとなる人がいる。それは地元の人。
その地の担い手はその地の人でなければならないと痛切に思う。
活動先の団体でも口酸っぱくなるほど「住民が主役」ということを唱え、それを旗印に活動している。自分も日々、そう考えれば考えるほど合点がいく。

地元の人々でなければ、その土地の良さは出てこない。

それはその地で生まれた人の「心の原風景」が、まさにその地であるから。
人の個性や素性(identity)は、土着のなかで育まれ、その地の水と風の中でしか在り得ないカタチになっているのだと思う。
時間が育む宿命と言うものではないかな。
そこで生を全うするのが流れやろう。

環境、自然が人の色を決める。
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大学の頃、作品制作をする時に最も考えさせられ、悩まされ、そして熱くなったものが、

「自分の手から自然と生み出されるものとは。そしてその生み出す“自分”を作り上げているものとは」という問い。

自分の手から生み出されたものはどんなものであれ唯一無二であるけど、
少しでも気を抜いたり不安が顔を出すと、どこかで(格好つけ)や(真似っこ)をしてしまう。
ブレるねん。
自己を確り見つめなければ本当のものは出てこない。(そうしなければならないほど、周りは情報に溢れ、自分を埋没させてしまう)

その自己を見つめるとき、当然過去をさかのぼる。家、家族。人、友達。地域、環境。
いろんな要因が絡まりあって今の自分になっていることに気づく。縁がそうさせる。
その地でなければ、その環境がなければ、今の自分はいないんだ。
自分を見つめるとき、地元を見つめる。
地元を愛する心が生まれ大切にしようとすることが、自分を、そして未来の我が子を大切にする心に繋がるのだろう。

愛する心が「つくる」という行為に直接つながるのだと思う。

「つくる」。ものだけでなく、広い意味で「つくる」

愛さなければ、つくれない。

まちづくり などという胡散臭い言葉なんかいらない。
そこにいる人が愛する心で時間や環境や人をつくるねん。
地元は地元の人でなければつくれへんねん。


つくるということはそれほど特別で、土着的で宿命づいたものやと思っている。

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不器用な文になってしまった。
by mongoling-yanwoo | 2012-09-09 03:23 | 日本
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